眠れない夜は永い

もうこれで最後だと思った瞬間を綴っていきます

反芻思考に悩まされている

休職してから気圧の高低差で体調が左右されるようになった。

しょーもね。

お金に対して潜在的な不安が膨らんでいる。

レジにお金を渡すのがこわい。

余分に渡してしまってるんじゃないかって不安。

余分に受け取ってないか手に水を含ませて確認してくれない店員に苛立つ。

なによりも、お金に対してこんなにも執着してしまう自分が恥ずかしく認めたくない。

新しい病院で、精神疾患の患者に適用される福祉制度の適用範囲が狭まった。

狭くなったと言っても、数百円の差なのだが、どうしてわたしは今までよりも数百円多く支払わなければならないのか、理解ができない。

理屈はわかるが、理解できない。

反芻思考が、脳を占領する。

医者に話しても、驚かれるだけ。

病気は病気だと認めてほしい。

自分の中に、「自分」と刻まれた刺青から解放されたく思う。

会社員にも母にも娘にも妻にも嫁にもなれない。

自分が「自分」でしかいられない事実に飽き飽きする。

とにかく、お金に執着して超現実的な不安に襲われることがこわい。それに疲れた。

不安に襲われているのは「自分」ではなく、病気だと医者に認めてほしい。

冷徹な目で、「それは〇〇という症状です」つって、診断書にカッターで刻んだような鋭い筆跡で病名を刻んでくれ。

もしくは殺せ。

生き地獄

薬飲むと気分が持ち上げられ、意欲的に行動ができる。でもふと「自分仕事もせず結婚もせず友達もいないのに何やってんだろ」って我に帰る。そんな時「あ、自分は病気だから休んでていいんだ、仕事せず好きなことしてていいんだ」って言い聞かせるけど、言い聞かせてるうちに「そうか、自分はこんな病気だったんだな」って、大変落ち込む。上手く休めない。

躁鬱

双極性感情障害の疑いがあると言われた。

約2ヶ月前のことである。

自分を長年苦しめ続けていた得体の知れない抽象物に名前がついて安心した。

しかし、名前がついたからといって周囲の理解が得られると思えば大間違いだった。

躁鬱患者以外に躁鬱のことは絶対に分かり得ない。

この鬱の時に死ぬんじゃないかっていう感覚。

それならいっそ死んだ方が楽なんじゃないかっていうあの感覚。

沼にずるずる引き摺り込まれていくこの生き苦しさ。

他人の発言や行動がとても軽率浅はかに映る。

イラつく。

目に見えないからこそ優先すべきものが優先されない。

この病気と付き合っていくのが本当に辛い。

同じように辛い人がいるよ、もっと辛い人がいるよって言われるのが耳障り。

「辛い」を相対化するな。

おおごとに捉えろ。

そしたら自殺者は減るだろう。

それが無理なのであれば、国を挙げて安楽死を認めろ。

葬式

母校に行ってきた。

しかし、誰もいなかった。

正門には草木が多い茂っていて、青錆の南京錠が私を睨みつけていた。

人っこ1人いない。

母校はなくなったわけではない。

移転したのである。

耐震工事が行き届いていないことが判明したその校舎は、ちょうど一年前より愛想をつかされ、今や廃墟と化していた。

高校時代は良い思い出がない。

県一の進学校だった。

割烹着みたく上半身が膨れて、それでいて機能性の低い女子の制服は、一目見るとその高校の生徒だと認識がなされた。

「勉強できるんだね」

その言葉の裏に隠された、勉強「しか」できないんだねというアイロニーに生かされる者、殺される者。その高校には両者が混在していた。

私は専ら後者で、散々な高校生活だった。

思い出すと反吐が出る。

ただ今日行った校舎は誰からも必要とされていないのにもかかわらず、凛とした佇まいで、その矛盾があまりにも滑稽だった。

それは火葬場で感じるそれにそっくりだった。

あんなにも苦しめられた、または苦しめた人生。それがものの小一時間で骨だけになる。

あまりにも滑稽だ。

脳みそも、肝臓も、胃袋も腸も、全部もともとあってないようなもの。

必要とされていなかったのである。

なんだ、人間ってたったこれだけのものか。

それから、人が「死ぬ」という事実に私は、非常に安堵するようになった。

今日感じたのはそれに近かったか。

ざまあみろ。

 

すずめの戸締まり

この3ヶ月何をしていたかというと、引っ越しをしていた。

3年半の一人暮らしに蹴りをつけ、実家に戻ることになった。

新しく家を借りようと試みたのだが、いざ家が決まり、契約書に判を押すとなると、躊躇してしまった。無収入で病気持ちの自分に未来などない。それなのに、2年間、家賃の支払い義務を突きつけられる事実に恐れ慄き、賃貸を断念した。

それで今は実家で暮らしているが、恐れは消えたわけではない。この病んだ自分に家族がいつ愛想を尽かすか、愛想を尽かさなくとも、いついなくなるか、そんな不安に怯えた毎日を送っている。

いや、不安に怯えているのではない。むしろ不安があった方が心の所在を確認できて有難いのかもしれない。不安を、不安の原因をこれと仮にでも決めることでこころの平穏が訪れるのだ。

今日、ベランダに出ると、隣人が怒鳴り合っていた。ただの親子喧嘩だ。私は動悸がして吐き気を催した。しかし、私はそれを聞くことをやめなかった。その場を立ち去ることができなかった。

不安、脳のもや、手の震え、息苦しさ、動悸。

不安が具現化し、私の心臓を鳴らしている。

自分は生きている!

不安を最高潮に感じることで、感じている時だけ、生きていることを噛み締めることができたのだった。