radwimpsの「世界の果て」を聞いて。
私はあれからどう生きたか?
震災から9年経っても、
救えないものが、
あるということを。
わかっていたけれど、
見ないようにしていたことを。
すべてを目の前に突き出された心待ちになって、落ち込んだ。
私は被災者ではない。
震災前に、東北に修学旅行に行った。
中尊寺金色堂を案内してもらった。
洞窟の話を聞いた。
バスガイドが、息子が私たちと同い年なんですよと言っていた。
誕生日を祝ってもらった。
仙台駅は水没した。
被災者の人をかわいそうだとか、
被災地に貢献したいとか、
そんなことを考えること自体が、
偽善だし、
おこがましいことだと思っていて。
極力、震災は、
得体の知れないものだと、
自分を納得させてきた。
修学旅行でお世話になった人が、
どうなったか、
考えることがそら恐ろしくて。
考えなくてもいいことだと、
自分に言い聞かせてきた。
時間が経てば、
救えることと、
救えないことがあって、
それを絶望と呼ぶか、
希望と呼ぶか。
どちらにも転がりきれない命が、
この世の中には、混在していて、
互いに殺し合っているような気がする。
この9年を私は過ごして、
世界に残されたものは、
絶望以外に言いようがないと。
そういう結論に至った。
実際、命を奪っていくのは、
命だし、
守っていくのも命だという
パラドックスとどう向き合って、
これから我々は生きていけばいいのだろう。