眠れない夜は永い

もうこれで最後だと思った瞬間を綴っていきます

「レンタルなんもしない人」について

「話し合おう」

「話せばわかる」

「話してほしい」


理解し合うことを前提に、

人と人は話そうとする。

いかに話すか、どう伝えるかということが

人間の一種のステータスであるかのように。


しかし、

いかなる場合でも、辿り着くところは

理解の不一致。

その末路は、

理解し合ったフリをするか、

もしくは関係が途絶えるか。


どちらにしろ、

我々は理解し合えないことがわかった瞬間、

絶望をする。

なぜなら、

それだけ相手に期待をしていたからだ。


村上龍の小説に出てくる女子高生の台詞。


「理解しようとしてくれるのは、もちろんうれしい。だが、理解し合えるはずだという前提に立つと、少しでも理解できないことがあった時に、事態はうまくいかなくなる」


社会人になって未だ5年にも満たないが、

少なくとも私の周りの大人は

どうも「事態がうまく」いっていない

ように思う。

自分も含めて。


みんな、分かり合ったフリをしているのだ。

分かり合ったフリで、

物事の一つ一つを乗り切ろうと

しているのだ。

だから、

後々人間関係の辻褄が合わなくなって、

人間としての付き合いが

消滅していく。

 

あり得ないのではないか?
私たちが完全に分かち合うことなんて。

 

この世にたった1人の人間が

存在している以上、

その人の感じ方、捉え方、考え方は

その人だけのものだ。

もしそうでなければ、

人類はここまで繁栄を遂げなかっただろう。

一人一人が別の役割を担うから、

ここまで来たのだろう。

 


なのに。

 


一歩会社や組織に入れば、

他人のことを分かったフリをすること、

他人に自分のことを分からせる努力をすることが美徳とされ、

少しでもその道から逸れてしまうと、

組織からはみ出しをくらう。

忽ちそこにいてはいけない存在になる。


でも、

その美徳は果たして実存か?

 


今日も私の仕事は成り立っている。

理解できないものを理解できたという

虚言の上で。


他人に期待をするな。

期待をすれば全てが破綻する。


そこにある

他者の肉体を、

ただ第六感で認めよ。


現代社会において、

それができるたった唯一の存在が、

「レンタルなんもしない人」

だと思った。