「カランコエの花」
という映画を観た。
LGBTに対する偏見がテーマになっているそうだが、
この映画の主題はこれに止まらない気がする。
この映画で舞台となるのはある高校。
クラスにレズビアンがいるという事実に対してクラスメートたちの気持ちがそれぞれ交錯する。
「うちのクラスにいるんじゃね?」
「おまえらレズなんじゃないの?」
「てめーがくだらねえこと言ってるから」
「言われた方の気持ち考えろ」
「レズビアンなんかじゃない!」
それが湧き出た瞬間、10代の彼ら彼女らにとって、不安感に変わり、互いに傷つけ合う。
では、その不安感を生み出したのは何か?
私は他でもなく「大人」であると感じた。
この映画では、保健室の先生が、生徒からレズビアンであると打ち明けられたことを受けて、その生徒のクラスでlgbtの授業をする。
「異性だろうと、同性だろうと、好きになったらしょうがない」
「恋に性別は関係ないと私は思います」
他のクラスでは授業はなされないことから、生徒たちはクラス内にlgbtがいることに気づき始める。
本来であれば、異性愛者と同じ並びで、同性愛者も両性愛者もトランスジェンダーも存在するはずである。
のにもかかわらず、特段、異性愛者以外を取り上げて、「LGBT」と高々と黒板に書きつける保健室の教師。
そんなものを見せつけられた生徒たちは、
lgbtに対する異質感をより確かなものに感じてしまうのも無理はないだろう。
さらに、その教師はある男子生徒に、
「このクラスにLGBTのやつがいるんじゃないの?」と問われたとき、回答をはぐらかす。
恋に性別も何も関係がないのなら、堂々と「そういう生徒がいる」と言ってもいいのではないか。
このような一連の大人の行動により、生徒らは、lgbtという疑いをかけられると忽ち、自らが「異物」扱いされてしまう、という確信を持つ。
やがて自らを守るため、生徒たちは互いを攻撃し合うのだ。
たしかに、保健の先生がきっかけを与えなくても、もとからlgbtに対する偏見を持っていた生徒もいるだろう。
しかし、この映画で生徒たちのlgbtに対する嫌悪感を露呈させてしまったのは、保健の先生、すなわち「大人」ではなかったか。
この映画のエンディングは、自分がレズだと打ち明ける生徒と、それに優しく相槌を打つ保健の先生とのやり取りで幕を閉じる。
保健の先生が、レズの生徒に寄り添っているように見えて、実はこの映画の中で最もlgbtに対して偏見を抱く「大人」であった、というオチが、どうもこの映画の含むアイロニーに思えてならないのだ。
よって、私はこの映画の主題を「大人」によって操作された10代の成長環境であると考える。