わたしはわたしでいられなくなった。
わたしがわたしでいることによって、世界に害悪をもたらしているように感じた。
なにより、わたしがわたし自身を苦しめていた。
だから、わたしがわたしでいてはいけない気がしていた。
俗に言う希死念慮の類である。
他人に打ち明けると、声を揃えて少し休んだ方がいい、と言った。
楽しいことを考えて美味しいものを食べて、よく寝たら次期に治るよ、と。
「わたしがわたしでいてはいけない」ことには誰も言及しなかった。
死に対する憧憬は、内臓に彫られた刺青のように、他者は言うまでもなく、私自身にもはっきりとしない物として、それでいて、痛みを伴いながら刻み付けられていることがわかった。
母親に希死念慮を打ち明けた時には、泣いて怒りを表した。
どんな思いで産んだと思っているのか。
そんな悲しそうな顔を見ていると、母親の悲しみを生み出してしまったのがわたしだという事実に愕然とし、ますます「わたしがわたしでいられなくなった」。
ニュースではここ数日、幼児置き去り事件を報道し続けていた。
30℃を超える残暑、送迎バスに5歳の園児が取り残され、助けを求められないまま熱射病で死んでしまったというのだ。
バスから園児たちを下ろす時に確認を怠った大人たちは責任を問われ、謝罪会見。
警察による現場検証。
保護者説明会の怒号。
そんな報道が連日行われ、テレビ出演者たちはそろって悲痛な表情を浮かべていた。
幼い子供を持つタレントで、涙を流す者もいた。
わたしはそんな報道をぼーっと眺めながら、
2週間ほど前に近所で起きた異臭騒ぎを思い出していた。
真夏の炎天下、日を追うごとに異臭が強くなっていく長屋を不審に思い、近隣住民が通報をした。
警察がドアをこじ開けると腐った老夫婦の遺体が見つかった。
熱射病だったという。
80代老夫婦のその長屋にはエアコンが設置されておらず、死亡から2週間以上経っているというのに、発見時には40℃以上の高熱があったそうだ。
住民は異臭の所在がわかり、安堵の表情を浮かべていた。
その事件が取り上げられたのは、地方テレビの夕方のニュースで30秒ほどだった。
絶望のガラス管は濁水を溜め沈澱し、わたしのため息を通すには不十分な狭さだった。