胸ぐらを掴まれたような感覚に陥ることは日常的だった。
その後は大抵殴られるから、
相手が胸ぐらを掴んだ時点でそれは覚悟できている。
概ね他者には期待しないが、
さっきまで微笑んでいた隣人が突如牙を剥くことは、まあよくあることだと踏んでいた。
だから、なるべく隣人には微笑まれたくないし、できるのであれば、隣に人はいてほしくない。
そんな私でも好んで会いに行く人がいた。
老いた男で、トタン一枚に囲まれたような、風をよく通す家に住んでいた。
螺旋階段の歩道橋を駆け上がると、小さな丘に上がり、錆びたジャングルジムの公園がある。
たいてい男はそこにいた。
どうしていつも外にいるのかと聞くと、
「俺が死んだら腐る前に燃やして欲しいんだ」と言った。
男はもともと病で足を切っていて、松葉杖だった。
孤独死を厭うていたのだ。
男は古い文庫を多く持っており、よく貸してくれた。
鷗外を好んでいたように思う。
しかし、大抵わたしは読まずに返していた。
書籍でなくとも、男の話で知欲が満たされていたからだ。
しかしその日、男は珍しくわたしに一冊も貸さなかった。
「人と人はなんの繋がりもないんだ。なんの共通項もない。明日会うかもわからない。今日この場かぎりの、この一瞬の関係なんだ。親子だってそう。ただ腹から生まれただけの関係。親切に育てられてもそうでなくとも、何も期待しちゃいけないんだよ」
そう言って鰯雲の向こう側に消えていった。
次の日の夕方、いつもの公園にはその男の姿が見えなかった。
その次も、またその次の日も。
とうとう孤独死を遂げたのかと思い、男の家を訪ねたが、不在だった。
その後わたしはその土地を離れることになり、男と再会することはなかった。
先日近くに用があり、男の家に行ってみたが、そこは更地になっていた。
放火のもらい火で全焼したそうだ。
絶望は時に人と人との密接な関係から解放してくれる。
絶望は決して世界に期待しないから、「いい」のである。